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イタリアからの便り

天正遣欧使節団
-西洋を初めて訪れた日本人使節-

横山明子


イモラ市立図書館にて

 私のイタリア、フィレンツェ滞在も12年が過ぎました。小さい頃からイタリアのルネッサンス美術に憧れ、高知大学を卒業してから、ルネッサンスを生んだ街で勉強してみたいという思いからイタリア行きを決断し、フィレンツェのアカデミア美術学校に入学しました。 そして生活費を賄うために学校に通いながら始めた日本人観光客をウフィツィ美術館などに案内する観光ガイドの仕事から、自分のアイデンティティーである「日本人」ということを客観的に考えることが多くなりました。さらに学校で制作していた作品にも自分らしさを追求していく上で、このアイデンティティーというのは海外では非常に問われる事だと外国人が多く通うアカデミア美術学校でも実感しました。

 日本という島から海外に出た時に、必ず発見するこの「日本人」であるという自分のアイデンティティーに日本人の誰もが驚いたり戸惑ったりすることが多いと思います。

 そんな中で私はこのフィレンツェでガイドの仕事中に日本人のお客様にいつしか「天正遣欧使節団」のお話をする様になりました。思い返せばこの天正遣欧使節団との出会いは2004年まで遡ります。友人のお父さんが書いた本(杉原耕治著「木綿橋からもういちど」現代教育研究所)の中に「日本人でヴェッキオ宮殿に始めて来たのは天正遣欧使節団という4人の少年たちだった・・・」という内容を読んでこの「フィレンツェに始めて来た日本人」に強い興味を抱き、日本から本を取り寄せて彼らについて調べ始めました。 そして現在に至るまで、私のこの「使節団」に関する研究は大きな発展を遂げ、この4人の少年使節の一人中浦ジュリアンの子孫にあたる小佐々学(こざさ まなぶ)博士と2009年にフィレンツェで出会い、そして昨年の2011年夏に小佐々博士のアシスタントとして平成遣欧使節団(長崎、宮崎の少年使節ゆかりの6市町から選ばれた)の中学生達と共にイタリア各地に400年前の遣欧使節の残した足跡を追って周る調査旅行に同行しました。 今回の調査旅行において日本に初めて発表された資料などもあり、その中でも使節によって書かれた400年以上前の手紙はその時間の経過を感じさせないほど保存状態がよく、まるで使節によって今書かれたばかりのような印象さえ受け大変感動しました。

 今思えば、中学校の日本史の授業で覚えさせられた伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンといった「変な名前の人たち」程度にしか思わなかった4人の少 年たちとのイタリアでの運命的なこの再会が、私のイタリア滞在に何らかの意味を持たせてきているのではと思い始めたのはここ2ー3年の事になります。

 私たちの国はかつてマルコ・ポーロによって極東の果てにある未知の国チパング(注:原文の発音)として伝えられていました。

 そして16世紀、西洋人によって発見された日本国は、私の憧れるルネッサンス期のヨーロッパ社会にどのように映ったのか。そして、それは今の日本とどの様なギャップがあるのか。

 「少年使節」のお話は、日本人というアイデンティティーを海外で考え直す上で最良な資料になると私は考えました。

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 それでは、ここで「天正遣欧使節団」のお話を皆さんにも簡単に紹介したいと思います。1585年、日本人が初めて西洋を訪れました。彼らは織田信長と九州のキリシタン大名達が派遣した当時の時代の名前から「天正遣欧使節団」と呼ばれる4人の少年達でした。 わずか12歳前後で長崎を出発したという幼き大使達は長崎の神学校で一年修学した後、有馬晴信や大友宗麟といった当時の九州で有力なキリシタン大名たちによって選ばれ、イエズス会の宣教師達に連れ添われ、当時のローマ法王グレゴリウス13世が待つローマに向かいます。 西洋への日本人派遣はイエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、そして天下統一を目前と言われた織田信長の強い意向に基づいて遂行されました。 「日本人は高い知能を持つ民族で、これからのアジア地域のキリスト教普及には日本が重要な拠点となり得る。」とヴァリニャーノは考え、そして彼よりもいち早く日本で宣教活動を始めたフランシスコ・ザビエルも同じ印象を日本人に受けたと言われます。 破竹の勢いで天下統一の実現に向かっていた織田信長は、天下統一の先に世界を見ており、西洋社会において絶対的な権力者であったローマ法王に「日本の権力者」としての姿を「天正遣欧使節団」を通じてアピールしたかったのではと言われています。 その為の献上品として使節団には狩野永徳によって築かれたばかりの安土城が描かれた金屏風が持たされました。(現在行方不明) そして一行は長崎出港から3年後にポルトガルに入り、当時のポルトガル〜スペインを併合していた王フィリペ二世と謁見した後、1585年3月1日にイタリア半島に到着しました。 イタリアではトスカーナ大公メディチ家のフランチェスコ一世に歓迎され、ローマでは二人のローマ法王との謁見を果たし(グレオリウス十三世は使節団と謁見した後18日後に崩御)、そしてヴェネツィア、パドヴァ、ボローニャ、ジェノヴァ、ミラノなどの諸国の統治者から大変な歓迎を受けた後に、4人が無事に日本に帰国したのは、少年使節が立派な青年に成長した後の1590年の事でした。

 そして使節達は8年5ヶ月の日本不在の間に、日本の情勢がガラリと変わった事を目の当たりにして愕然とする事になります。 天下人となるはずだった織田信長は、彼らが日本を離れて間もなく「本能寺の変」で無念の死を遂げており、代わりに天下人となった豊臣秀吉によりかつて大きな成功を収めていたキリスト教は「禁教令」において迫害されていました。 それでも遣欧使節は豊臣秀吉との謁見に二度望み、「禁教令」の撤回を懇願しますが受け入れてもらえず、その後、4人は厳しい運命に翻弄されながらそれぞれが全く違う最期を迎えます。

 伊東マンショは潜伏しながらキリスト教の司祭として活動を続け46歳で病死、千々石ミゲルは迫害に耐えきれず棄教、原マルチノは迫害の進む日本を離れ中国のマカオにて客死、中浦ジュリアンはキリスト教迫害史の中で最も多くの死者を出した「長崎大殉教」の年(1633)に「穴吊り」という拷問に4日間耐え抜いた後殉教しました。 少年達のストーリーが私たちに語りかけてくるものは、彼らの生涯そのものが世界を知った日本の運命を象徴的に表しているということです。

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 西洋に初めて訪れた日本人の若い使節達は諸外国との対外関係、外交知識なども全く持たないにも関わらずヨーロッパ諸国の権力者達の前で物怖じする事なく立派に誠実に振舞い、同じ日本人というアイデンティティーを持つ私たちにとって誇らしい外交の歴史を刻みました。 しかし帰国後、天下(日本)統一を果たした日本は西洋との関係を閉鎖する決断をし、4人の少年達はそれぞれが棄教、国外追放、病死、殉教という全く異なった最後を遂げます。 さて、16世紀という時代は日本にとって非常に動乱、波乱に満ちた時代であり、その中に日本人で初めて西洋を訪問したという偉業を成し遂げながらも、語られる事のないまま忘れ去られていました。 そして皮肉なことに300年後(1873年)、日本が再び西洋に向けて開国し外交を自ずより開始した「岩倉具視使節団」によって4人の使節の手紙がヴェネツィアで発見された事によって「西洋を初めて訪れた日本人使節」は再び日本人から発見されます。 今日、世界中に日本人観光客がいると言われるほど日本と世界が近くなった今、本当の意味で日本人は海外の人々との交流関係を築いていかなければ国際社会には参加できないと言われています。 単一民族で島国に住む日本人にとって違う文化を持った人々と理解し合い共存するということは不慣れであり、なかなか容易なことでないでしょう。

 そういった中で16世紀に国際交流でいち早く好例を残した「天正遣欧使節団」は素晴らしい先人の例として注目される事になると思います。

 一昨年観光ガイドの免許を習得する為のフィレンツェ県公認ガイド試験で、私は少年使節が残した日記「天正遣欧使節記」のフィレンツェ滞在の部分を抜粋してイタリア語に訳し、フィレンツェ県の役員が同席した口頭試験で発表しました。 400年前の日本人が見たフィレンツェの街はどうだったのか、彼らが抱いた街の印象など県の試験官はこの論題に非常に興味をそそられたようで私の論文冊子を希望して持って帰られました。 私はこのフィレンツェでこれからも「少年使節」の物語を私なりに研究して、機会があればお話ししていきたいと思います。 なぜならそこには、日本という島から飛び出して世界を見た4少年の希望に満ちた真っすぐな姿に日本人もイタリア人も色褪せることない感動を与えられるからなのです。

横山明子さんからのお便り!

横山明子

ちょっと前まで、ガイドの仕事がとても忙しかったです。 実は広島の大学生さん達の超ハードな旅を5日間同行しました。 トスカーナを見尽くしたのでは・・・と思われるほどで。

疲れました・・・。とにかく・・・。 でも一緒に同行した学生はとにかく可愛くていい子達ばかりで楽しかったです。 広島の市大の油絵科専攻の子達でした。

この旅行から帰ってすぐにBRESCIAに行きました。ロンバルディア州第二の産業都市でありながら文化的にも歴史的にもとにかく奥が深いのに驚きました。

一日だけそこの音楽院でチェロを学んでる友達に会いに言って無理やりその子も一緒に市内観光に付き合わせました。 バイオリンの名器を生むクレモナの近く(列車で30分)と言うこともあってその子も楽器の調整はクレモナに行くそうです。 お金持ちの街だなあ・・て感じがしました。フィレンツェと違って・・・ブランドのお店が多いということと、街を歩いてる人の服装がこぎれいだと言うこと・・あと、友達が言うには音楽学校に通ってる子供たちもいい楽器を持ってるそうです(楽器って高いですからねえ・・。)

昨日は ピッティ宮殿でバロック音楽を演奏している友達のミニコンサートに行ってきました。 ピッティ宮殿の小さな礼拝堂の中にある16世紀のパイプオルガンを弾いてましたが、それがまだ普通に弾けることに驚きました。(修復はしてないといってましたが・・・)

友達のウフィッツィ美術館のレオナルド・ダ・ヴィンチに関する来年の展示会ですが、なんかいろいろ進んでるようです、彼らの作品を見に行ってからまた詳しいことを報告します。

◇レオナルド・ダ・ヴィンチ展−La mente di Leonardo da Vinci−

手記に残るあらゆる分野に関する研究、工学・物理学・水力学・彫刻・解剖学・・などが再現ビデオやコンピューター復元CG、模型などあらゆる最新のメディアや立体作品などで分かりやすく(それでも難しいですが・・)紹介されています。

横山明子さんの活動



−ちぎり絵ランプ−

この作品は、レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンからイメージを受けたものとのこと。

横山さんの作品は、現在フィレンツェのおしゃれなブティックやレストランに飾られているようです。

理想の女性

大石ミワ



 見えるそのままの感じがして、私はイタリアが好きです。素直に感じます。

 私がイタリア ミラノに行く様になって、もう3年になります。キッカケはイタリアの“MODA”を観る為でした。以前からファッションに興味があった私は、地方都市のコレクションにモデルとして参加していました。ステージでオートクチュールを着たり、まだ吹く風が冷たい3月に浴衣や薄手のドレスを着たりもしました。鳥肌になっても笑っていたことでしたね。コレクションの発表は時期の前にある為、暖かい時に厚手のものを、寒い時には薄手のものを着用します。それでも、私は舞台の大小に関係なく、音と光、風が流れる空間が好きなのです。当然、世界においての先端を観てみたくなりました。いつも、雑誌で見るモデルと、そこに共存する世界達。ついに、自分で感じたいと思いました。私を知る人にとっては、見ることが出来ない不安ばかりあったに違いありません。だって、本人も同じ様に“編入生”の気持ちだったのですから。

 初めてミラノ見本市会場で“MODA MILANO DONNA”を観た時、今までのものとの違いを知りました。理解はしていましたが、確かに自分の目で観ることで、体格の差こそあれ、競うことは拒まれたのです。モデルは、展示してあるマネキンと同じ様な体つきを求められることが多くありますが、そこには、本当の姿で居ました。足の長さ、顔と体のバランス、力あるものでした。筋肉と脂肪のつき方までもが、なめらかで魅力あるものでした。

 今でも、ミラノ中央駅から特急列車に乗り、CAFEE’と言って、プラスチック製の小さな容器に気分が悪くなりそうな程苦くて、厚さ1.5cmの“CAFEE’ESPRESSO”に驚き、魅せられたヴェネツィアは忘れられません。陸上のものと変わりなく操られ通り過ぎていくゴンドラと、日本とは違った風景と色使い。絵はがきで見、想像してきた空間は、確かに自分で観たものとして、私の心に残ったのです。カフェ・フローリアンで、サンドイッチと赤ワインの昼食を取りながら聞く、生演奏。ヴァイオリンとヴィオラ、コントラバス、ピアノ、クラリネットを聴きながら観た、演奏家が弾くそのものと同じ姿になっていく様子。とても楽しい時間を過ごしました。まさに今、自分が昔そこで暮らした人の様に、音と空気と調和した風景に酔い、今までとは違う贅沢を忘れる程、そこに溶けてしまったのです。私は、この頃からイタリア生活のこだわりと、芸術を持ちながら生きる、美観意識を理解し始めたのかもしれません。

 歴史という芸術を持った建物達。空と調和した街の色遣い。そのような自分の地に愛着を持ち暮らす女性・男性達。この上なく、太陽を愛する人達が造る世界は、自然体であり、また工夫されたものだと思うのでした。

 毎日のことですから、美しい方が心やすらぎ、新鮮な気分になりますものね。太陽とそれに息づく生物は自分そのもので、古き物達は昔からの知識と意識の融合ですもの。その景色に魅せられたのは、私だけではないはずです。

 薄暗い照明を好むイタリア・ミラノのリストランテ。重厚な机と昔からそこにある様な手にも重みを感じる椅子との夕食です。

 また、昼1時になれば日本の女性が驚く様な大きなピザを、器用にナイフとフォークを使い完食です。時には、パンのみみを残す様に、これもまた器用により分けた人もいました。私は、ヨーロッパのスマートさと、体格から伺える力強さを感じました。手足が長く、細く見えるからといって、少食ではないようです。(体力)

 自宅で食事をする場合も同じ様に、テーブルクロスとお揃いのナプキンにナイフ、フォーク、スプーンを置き、一皿目のパスタ皿の下に後のサラダ用の平らな皿が、きっちりと揃えられます。それぞれ色のバランスと統一感があるみばえが良い食卓です。彼女らにとっては、美しく食事を楽しみ、友達との会話と空間に満足することがとても大切なようです。食べる事もおしゃべりをしてお互いに知ることも、生活に欠かせないものなのでしょうね。(演出)家での食事でも甘いものは別で、果実や一切れのタルトまで食べます。

 イタリアでは一般的に、昼休みは日本よりも長く、各商店、昼1時から3時までしまっています。昔、靴の修理に1時30分に行き、3時まで店の近くにあったBARでジェラートをおかわりする程、待ちくたびれた経験があります。ミラノ中心地にある観光案内所でもそうですから、圏外から来た旅行者たちは、不意をついた看板に、信じられないわ!といったご様子です。ドゥオーモからほんの少し離れた百貨店でも、この時間になると一旦扉を閉め、既に入店している客も一時出てもらうというものでした。私の感覚で、どうして昼間の人が多く来そうな時に、店を閉めてしまうのか、不思議でした。考えてもみれば、昼食を家で取る為に一時帰宅する人がいる位ですから、朝から夕方まで働くうち、昼の休息は都会のストレスを受けるミラノ人にはとても重要なのでしょうね。唯一、ドゥオーモにあるリナシェンテは昼も土曜、日曜も開いていますが、婦人雑貨売場に5人集まって、おしゃべりをしているものですから、なんだか、居心地悪い感じでした。休憩が足りないのか、おしゃべりが足りないのか、客より店員が大きく見えます。普段からある生活力の強さを感じたことです。(対等)制服が赤である為、余計にそう見えるのでしょうか。・・・続きは次回のBUONGIORNOに掲載いたします。・・・

フィレンツェの試み

横山明子



この一年間、フィレンツェで私はさまざまな特殊な経験ができました。

まず、大変興味深いアーティストの人たちに会ったことがそのきっかけになりました。

3年前に行われたマザッチォ生誕600年記念と彼がその父といわれるルネサンスの生誕600年記念としてフィレンツェでさまざまなマザッチォとルネサンスに関する企画が行われました。

その企画に参加してウッフィツィに作品を展示したアーティスト・ジァンニとその奥さんのステッラと知り合いました。

彼らの作品は非常に特殊で、過去の偉大な芸術家からインスピレーションを得て遠近法や歪像、錯覚、影などを使った作品を制作しています。

トリック的な作品にはルネッサンスの芸術家達が研究した科学と芸術の研究と文学的な精神を基盤に、現代のマテリアル(道具)を使って今だからできる見せ方で作品を作るという、過去と現代の見事な融合を実現しているとお思います。

彼らの作品に大変魅せられてしまった私は、彼らの工房に通ううちに仲良くなり、新しい作品の制作の手伝いをするようになりました。

彼らの作品の多くが美術館に要請されたもので、フィレンツェのヴェッキオ宮殿、科学博物館とミラノの科学博物館のために制作してきました。

そして、なんと言ってもそのヴェッキオ宮殿とのつながりで、ヴェッキオ宮殿で行われていたMUSEO DEI RAGAZZIのジョルジョ・ヴァザーリの企画を日本人に紹介できたのが貴重な経験でした。

この企画は最近NHKでもチラッと紹介されたみたいなのですが、ある旅行会社を通じてツアーの企画の中で紹介されました。

西暦2000年まで閉じられていた秘密の回廊がジョルジョ・ヴァザーリに扮するイタリア人スタッフによって案内されるというもので、もともとはこのMUSEO DEI RAGAZZIという教育団体が子供たちの教育のために企画されたものでした。

そのジョルジョ・ヴァザーリの企画を紹介するにあたってジョルジョ・ヴァザーリに扮するイタリア人のスタッフと打ち合わせをしたり、少し内容に変更を加えたりして企画は今年の2月から日本人に初公開となりました。

企画はイタリア政府観光客のほうに紹介しましたのでホームページのほうに予約の連絡先が掲載されています。

ただ日本語での案内は8名以上の予約からになっています。

現在は科学博物館に作られた“遠近法学習教室”の日本人向けに案内することが検討されています。

数学や算数が大嫌いだった私にとってなかなか大きな課題になりそうです。

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